【世界遺産をもっと楽しむ】富岡製糸場編

世界遺産

 Hisaです。私は世界遺産検定2級を持っており、現在1級の取得を目指し勉強しています。そんな私が世界遺産を一つずつ紹介していきます。

 今週は群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」を扱います。

遺産概要

 「富岡製糸場」について皆さんはどれくらいご存じでしょうか。おそらく学生時代に日本史などの授業で聞いたことがあると思います。そして、なんとなく産業革命時の日本の工場というイメージがあるのではないでしょうか。そんな富岡製糸場について詳しく見ていきましょう。

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、19世紀後半から20世紀における技術交流、技術革新の歴史を物語る遺産となっています。江戸時代、日本では鎖国の影響で近代化が遅れており、明治維新をきっかけになんとかしようと考えていました。そこで明治政府は、海外にも広く輸出されていた生糸を軸に貿易の拡大、海外の技術の導入を目指していました

 そんな中、フランスの技術者ポール・ブリュナにより1872年に初の官営機械製市場である富岡製糸場が完成しました。フランスから伝えられた製糸技術は日本に広まり、独自の改良も加えられました。その結果、生糸の品質向上と大量生産が実現され、日本の産業の近代化に大きく貢献しました。

 富岡製糸場は和洋折衷の建造物で、トラス構造とよばれる屋根組みも見られます。また、「富岡製糸場」以外にも「田島弥平宅」、「高山社跡」、「荒船風穴」を含めた4資産が世界遺産に登録されています。

評価された点

 世界遺産には登録基準というものがあるのですが、富岡製糸場が評価された登録基準が2つあります。1つ目は、登録基準(ⅱ)の「文化の価値観の相互交流を示す遺産」です。フランスから養蚕技術がわたり、日本の伝統技術と融合した技術は20世紀初頭の世界の生糸市場における日本の役割を証明するモデルとなりました。世界的に共有された養蚕法が、早い時期に確立されていたことを証明する遺産として評価されたようです。

 2つ目は、登録基準(ⅳ)の「建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す遺産」です。富岡製糸場は設計段階から工場を大規模なものにし、西洋の最良の技術採用しました。このことより、日本と東アジアに新たな産業の方法論が伝播するのに最もふさわしい時期だったことを示し、木骨レンガ造りなど和洋折衷の産業建築様式の出現を示した点が評価されています。

歴史

 先ほどもなんとなく説明はしたのですが、明治政府は「富国強兵・殖産興業」に重点を置き、主要輸出品の1つに生糸を定めました。ポール・ブリュナの指導の下建設工事は1871年に起工し、その翌年に日本初の官営工場である富岡製糸場が完成し、操業を完成しました。

 明治政府は全国各地で労働力となる工女の募集を行いました。しかし、当時は外国人指導者のもとで働くことに抵抗を感じる日本人も多かったそうです。ですが、各府県に人数を割り当て、士族の子女を中心に多くの人材が集められました。その後、彼女らは習得した技術を日本各地に広めていきました。

 1893年、富岡製糸場は三井家に払い下げられ、官営工場としての歴史は幕を閉じました。その後、製糸場は別の民間の事業者へと引き継がれたが、化学繊維などの普及による生糸価格の下落などのため、1987年に操業を停止しました。

構成資産

 先ほども少し述べましたが、構成資産は富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の4つです。

 富岡製糸場はいわずもがな、1872年に明治政府が設立した官営の機械製糸場で、ほぼ建設当時のままの姿で残っています。官営から民営に変わったのちも一貫して操業され、製糸技術開発の最先端として国内養蚕・製糸業を世界一の水準に引き上げました。

 田島弥平旧宅は養蚕農家の田島弥平によって、1863年に建造された主屋兼蚕室です。彼は通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を確立しました。瓦葺きの総2階建てで、換気のための「越し屋根」を備えた構造は、のちに近代養蚕農家の原型となりました。

 高山社跡は、通風と温度管理を調和させた「清温育」という蚕の飼育法を確立した高山長五郎の生家です。養蚕法の研究・改良や組合員への指導が行われ、指導の中で育まれた技術は海外にも伝えられ、「清温育」は日本の標準養蚕法となりました。

 荒船風穴は1905年に建造された、岩の隙間から吹き出す冷風を利用した国内最大規模の蚕種の貯蔵施設です。冷蔵技術を活かし、当時は年1回だった養蚕を複数回可能にし、繭の大幅な増産に大きく貢献しました。

以上で富岡製糸場の紹介を終わります。群馬に近い方は是非一度行ってみてください!!

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