【世界遺産をもっと楽しむ】岩手の平泉編

世界遺産

 Hisaです。私は世界遺産検定2級を持っており、現在1級の取得を目指し勉強しています。そんな私が世界遺産を一つずつ紹介していきます。

 今週は岩手の「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群」を扱います!

遺産概要

 平泉は2011年に文化遺産に登録されました。構成資産はいくつかあるのですが、中尊寺は学校の教科書にも載るほど有名なのではないでしょうか。

 皆さんは奥州藤原氏という言葉を聞いたことがあるでしょうか。奥州藤原氏は11世紀から13世紀あたりに現在の東北地方を統治していた豪族です。彼らは軍事ではなく文化交流に力を注いでおり、京都に比肩する最先端都市として著しい発展を見せていました。そんな地域において浄土思想の考え方を踏まえた歴史的な建築物が建てられ、考古学的に重要な遺産になっています。

評価された点

 世界遺産には登録基準というものがあるのですが、平泉が評価された登録基準が2つあります。1つ目は、登録基準(ⅱ)の「文化の価値観の相互交流」です。仏教は6世紀に中国、朝鮮半島を経由して伝来しました。そんな仏教に加えて日本古来の自然崇拝と融合して独自の発展を遂げたことを、平泉では空間的に表現しました。また、大陸から伝来した伽藍建築に関する理念や意匠、技術と融合しながら発展していった点も評価されています。

 2つ目は、登録基準(vi)の「人類の歴史上の出来事や伝統、宗教、芸術などと強く結びつく遺産」です。平泉において重要な浄土思想は、日本人の死生観の形成に重要な役割を果たし、建築や庭園群などの理念や意匠に反映されている点から評価されています。

歴史

 11世紀末に現在の東北地方である陸奥、出羽国を統治していた藤原清衡は平泉の地を新たな都市として建設しました。この当時、奥州では金などによる交易が盛んにおこなわれていました。その財力を背景に、清衡は浄土思想に基づく浄土の実現を目指しました。

 1105年には中尊寺を造営、1124年には金色堂を建立しました。1128年に清衡が亡くなったあと、2代基衡へと引き継がれ、慈覚大師円仁によって開かれた古寺の毛越寺が再興されました。3代秀衡の時代には、阿弥陀如来の極楽浄土を表現する無量光院を造営しました。

 1187年、源義経が兄の追討を逃れ秀衡にもとに身を寄せたが、1189年に4代泰衡は頼朝の力を恐れ、義経を自害へ追い込みました。しかし、その後平泉は頼朝の軍勢に襲撃され、奥州藤原氏は滅亡してしまいます。

 その後、1226年には毛越寺が火災で焼失し、1337年には中尊寺で火災が発生し、多くの建造物が焼失しました。室町時代になると平泉は参詣の霊場として一般の庶民からの信仰を集めるようになります。

構成資産

 平泉の構成資産は、中尊寺、金色堂、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の6つです。

 中尊寺は清衡が建立した寺院で、建立に関わる「供養願文」というものがあります。これは、奥州の戦で亡くなった人の霊を敵味方の区別なく浄土へと導くとともに、奥州に現世の浄土を築こうとした清衡の強い願いが示されています。

 金色堂は清衡が建立した阿弥陀堂です。阿弥陀如来の浄土を表す方三間の仏堂建築は、同形式の阿弥陀堂建築の中では国内最古のものとなっています。毛越寺は2代基衡が造営した寺院ですが、現在は度重なる火災でほとんどの建造物が失われています。

 観自在王院跡は2代基衡の妻によって建立された寺院ですが、伽藍は1573年に焼失して今いました。無量光院跡は3代基衡が建立した寺院の跡で、この無量光院は現世における西方極楽浄土の観想を目的として造られました。

 金鶏山は、平泉中心部の西に位置する標高98.6 mの小丘です。平泉中心部から目視できる位置にあるため、古くから方位を示す目印とされました。山頂には経塚が築かれ、各寺院の浄土庭園によって、浄土を空間的に表現する際に重要な役割を担っていました。

 以上で平泉の紹介をしています。私自身平泉に行ったことがないので、一度は行ってみたいなと考えています。来週も日本の世界遺産について紹介する予定です!!

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